2016年8月31日水曜日

ジョージアの夏

ジョージアの夏は暑いです。首都トビリシでは気温が40度にまで上がる日もあります。7月の下旬から8月の初旬にかけては一年で最も暑い時期です。ただし、日差しが強くても、日陰に入れば楽になります。東ジョージアはからっとしているのに対し、海に面した西部は比較的湿度が高いです。

ジョージアでは夏は休みの季節です。ジョージアでは年に2回、普段とは違う気候のところで何週間か過ごすことが健康のために必要だと考えられています。ジョージア語ではこれを「空気替え」(ჰაერის გამოცვლა)と呼びます。海で2週間、山で4週間休むのが理想だと言われます。近年は人々はお金や時間を気にして昔のように長く休めませんが、夏になればやはり少しでも日常から抜けだしたいと思うものです。田舎に親戚や友達がいて家があれば、夏休みを田舎で過ごす人も多いです。日帰りで近くの山や川、湖などに行くこともあります。最近、観光会社は日帰りや2、3日間の短いツアーの選択肢を増やしています。若い人は短いツアーや、レストランやバーが多いにぎやかな海の町のほうを好みます。子供はよく針葉樹林がある山のほうに連れていきます。このように今年の夏もジョージアの各地が人々でにぎわっていました。

ジョージアは北海道よりも少し小さいくらいですが、カフカス山脈の山々と黒海があり、ミネラルを豊富に含む泉や温泉があちこちにあり、森林や手つかずの自然がまだ残り、リゾート地がたくさんあります。ソ連時代にはジョージアは保養地で、外国に行くことができないソ連の人々にとってはジョージアに行くことが休暇の最高の過ごしかたでした。ジョージアは90年代の混乱を乗り越え、インフラを整えつつあります。2004年から政府はジョージアのリゾート機能を復活させる政策を積極的に進めています。ジョージアの古い歴史や数多くの遺跡がその魅力を高めます。最近は外国からの観光客も増え、旧ソ連諸国の人々をはじめ、東ヨーロッパ、アラブの国々、イスラエルなどから多くの観光客がジョージアを訪れています。
ボルジョミ市、公園の前にある泉、人々は並んで順番で水を取っています。

黒海、コブレティ市、海を楽しんでいる人々

ボルジョミ地区、ティモテスウバニ村の古い協会の庭に子供ずれが多いです。

2016年5月13日金曜日

チャブキアニ・バレエスクール

5月12、13日にトビリシ・オペラ・バレエ劇場でチャブキアニ・バレエスクールの卒業コンサートが行われます。このスクールはニノ・アナニアシヴィリが指導しています。彼女は日本のバレエ界と交流が深いので、今回のコンサートにも日本人のバレエダンサーが日本からグルジアに来ます。

バレエスクールは12年制で、4・5・3年間に分かれています。同じ建物に小・中・高等学校もあるので、子供たちはバレエスクールと学校に同時に通うことができます。バレエスクールは他の学校の生徒も受け入れています。入学してから最初の4年間の練習が終わると、厳しい進級試験を受けなければなりません。リズム感、体の柔らかさ、芸術の面、外見、健康などいろいろチェックされます。特にダンスに向いた素質のある子供は学費を免除されます。5年間の訓練の後、バレエダンスと演劇ダンスのどちらか一つを専門に選び、稽古を続けます。卒業後、トビリシオペラバレエ劇場のバレエ団に入ったダンサーも少なくありません。

学費は年に1300ジョージアラリ(現在のレートで約6万3千円)です。大人向けの個人レスンも可能です。料金は1時間当たり40ラリ(現在のレートで約2千円)です。普通のジョージアの家庭には高いです。10人集まれば大人のグループでの稽古もできます。

ジョージアにはバレエ愛好者の団体があり、日本の大使夫妻も入っています。バレエの才能がある子供たちが無料で練習できるよう団体のメンバーが寄付を行なっています。また、スクールはしばしばチャリティコンサートを開き、その収入を生徒のレッスンに充てています。

3月29日にルスタヴェリ劇場で行われたチャリティコンサートを私も鑑賞しました。コンサートには、チャブキアニ・バレエスクールの生徒たちと日本からのバレエダンサー7人が出演しました。コンサートは二部構成で、第二部は「眠れる森の美女」でした。2時間以上も続き、バレエを十分楽しめました。5月13日のコンサートには、親戚や友達も誘って、息子も連れて行きます。


チャブキアニ・バレエスクールの生徒たち






5月12日、13日のコンサートのポスター
ルスタヴェリ劇場の舞台で日本人のバレリーナが出演するシーン「眠れる森の美女」
(チャブキアニ・バレエスクールのHPより)

チャブキアニ・バレエスクール
チャブキアニ・バレエスクール FB

2016年5月2日月曜日

復活祭

5月1日、ジョージアでは復活祭が祝われました。復活祭はキリスト教でもっとも重要な祭りです。日付は正教のどの国でも同じで、春分の日以降、最初の満月の次の日曜日です。今年は日本のゴールデンウイークに当たりましたが、4月の上旬になる場合もあります。復活祭はジョージア人にとってお盆のようなものです。人々は故郷に戻って家族と一緒に過ごし、教会に行ったり、墓参りをしたりします。

ソ連時代は、政府は住民が宗教の祭日を祝わないようにしていたので、ニュースにも一切話題にされませんでした。この日に教会に行く人は特別に監視され、その人は将来仕事で昇進できませんでした。当時は日曜日以外に休日がなかったので、人々は復活祭の日に墓参りをしていました。

正教では墓参りは復活祭の後の2度目の火曜日にするべきですが、ソ連時代にできた習慣で日曜日に行く人々が今もいます。現在ジョージアでは復活祭をはさんで金曜日から月曜日までの4日間が休日で、多くの人は復活祭の翌日の月曜日に墓参りをします。復活祭に町から故郷に戻った人はそこで墓参りするために一週間も待てないので、総主教も復活祭の次の日に墓参りしてもよいと許しました。

聖枝祭から復活祭まで一週間ですが、正教徒はこの一週間に断食を特別に厳しく守ります。この一週間を水とパンだけで過ごす人もいます。教会ではイエスがエルサレムに入った時からゴルゴタの丘で十字架に張りつけられるまでの出来事を回想し、祈ります。土曜日の夜から日曜日の朝まで特別な礼拝が行われます。たくさんの人が教会に行くので、教会の中に入りきれず、教会の庭に立って礼拝を聞いている人も多いです。復活祭の日に断食が終わるため、 卵、魚、肉、乳製品を使った料理をつくって食べます。このような料理は断食の後特別においしく感じられます。

復活祭のテーブルに欠かせないのは赤いゆで卵とパスカという甘いパンです。復活祭の前の金曜日に卵を玉ねぎの皮とアカネという植物の根っこと一緒にゆでます。すると卵の殻が赤く染まります。白い卵が赤くなることはキリストが復活した奇跡のシンボルです。山の形をしたパスカは、キリストが張りつけられたゴルゴタの丘を表します。復活祭の日、子供たちは赤いゆで卵をぶつけあい、割れない強い卵を探して遊びます。この日には、人々は普段のあいさつの代わりに「キリストが復活した!」「いかにも」と言い合います。

赤いゆで卵とパスカ
復活祭をテーマにピロスマニが描いた絵「羊と復活祭のテーブル」

2016年4月29日金曜日

プライバシーは守られているのか

ジョージアでは人々のプライバシーが十分守られていないという問題について、最近、議会やテレビ、新聞、社会などで議論されています。2014年からこの問題について市民グループが社会運動を行っています。このグループは人々の会話、特に携帯電話での会話の盗聴を厳しく制限し、警察の操作に必要な限られた場合しか行わないよう求めています。運動のリーダーはそのために法律を改正する必要があると述べています。

しかし、2か月ほど前、ジョージアのある政治家の私生活を盗撮した映像がインターネット上にアップロードされました。この映像には、著名なジャーナリストの私生活を盗撮した映像も続いて公開されるという脅し文句がついていました。この事件は火に油を注ぎ、社会やマスメディアで大スキャンダルになりました。

メディアはその政治家の名前を公表しないよう約束し、このような映像を無視するよう人々に呼びかけました。この事件で脅迫の対象になったジャーナリストは、「恐れれば彼らに操られることになる。私は恐れない。私のどんな映像を流しても構わない」と言いました。この映像を撮影した人、保管した人、第三者に渡した人、インターネット上にアップロードした人全員が犯人だという意見に誰もが賛成しています。この事件の後、テレビ局長など数人も私生活を盗撮した映像を公開すると脅されていたことが明らかになりました。首相はこの事件をできるだけ早く捜査し、犯人を見つけなければならないと言いました。大統領は今回の事件を厳しく非難し、国民をこのような脅迫から守ると約束しまた。映像のアップロードが外国から行われたことが判明し、警察は外国とも協力して捜査を続けています。現在、議会選挙まで5か月しかないジョージアの社会にとって、このような事件が二度と起きないようにすることが重要な課題だと野党側は言います。

正直に言うと、私は社会のこのような反応に驚きました。私の子供の時はまだソ連でした。ソ連時代には人々はいつも何かで脅され、支配され、プライバシーは全く考えられませんでした。今はソ連の影響がなくなり、監視におびえていたジョージア人たちは次第に自由になりつつあるように思います。
 
脅迫を厳しく非難したジャーナリストたち


2016年4月24日日曜日

聖枝祭

今日はジョージアで聖枝祭が祝われています。この日に、ロバに乗ったイエスが弟子たちとともにエルサレムに入りました。その時イエスを迎えた人々はヤシの木の枝を手に持ち、自分の服や枝を下に敷いたと聖書に書かれています。聖枝祭は復活祭の前の日曜日に行われます。この日は断食をしている人も魚を食べることが出来ます。ジョージアでは、ヤシの木は少ないので、信者は代わりに教会にツゲの木の枝を持って行きます。枝に聖水をかけてもらい、次の年の聖枝祭まで一年間家に飾ります。正教の他の国ではオリーブ、猫柳の枝などを使うこともあります。
イエスがエルサレムに入ったときを表すイコン
小さい編みかごに入れたツゲの枝は聖枝祭の飾りになります
教会の前でツゲの枝が売られています

2016年4月10日日曜日

ジョージアのバレエ

1891年にイタリアのバレリーナ、マリア・ペリニがジョージアのオペラ劇場に招かれました。彼女はジョージアに住み着き、トビリシ・オペラ劇場のプリマバレリーナを10年間も務めました。後にダンスをやめ、1916年にジョージアで初めてのバレエスクールを開きました。彼女のスクールからたくさんのダンサーや劇場の芸術家が生まれました。
マリア・ペリニとバレエスクールの生徒たち
マリア・ペリニの生徒の中にヴァフタング・チャブキアニ(1910年-1992年)もいました。彼はロシアでバレエの勉強を続けました。レニングラード(現ぺテルブルグ)のキーロフ(現マリンスキー)劇場の首席ダンサーになり、振付師としても活躍しました。チャブキアニの振り付けで男性のダンサーの役割が広がり、深い意味を与えられるようになりました。彼は世界の多くの国で公演し、日本でも踊ったことがあります。チャブキアニはロシアで12年間活躍したあと、1941年にジョージアに戻りました。ジョージアでもバレエダンサーと振付師として活動し、国立バレエ団を指導しました。1951年からは国立バレエスクール(ペリニのスクール)を指導しました。チャブキアニは指導方法やレパートリーを変え、ソ連の他のバレエスクールと交流を深め、バレエを学ぶ新たな質の高い環境をつくりました。後にこのバレエスクールにはチャブキアニの名前が冠されました。今日、ジョージアでチャブキアニは伝説のバレエダンサーと呼ばれています。
ヴァフタング・チャブキアニ
ヴァフタング・チャブキアニ
ジョージアのバレエスクールが生んだ次世代のバレエダンサーを何人か挙げましょう。これらのダンサーの多くは、ジョージアのバレエスクールでバレエを始めた後、ロシアのモスクワまたはサンクトペテルブルグで学び、トップバレエダンサーになりました。世界の多くの国の舞台で踊り、日本にも公演に来たことがあります。90年代にジョージア国内が混乱していたころには、トビリシで頻繁にチャリティ公演を行い、トビリシ・オペラ・バレエ劇場を支援しました。

ニノ(ニーナ)・アナニアシヴィリ(1963年-現在)
モスクワのボリショイ劇場のプリマバレリーナ
米国ニューヨーク・シティ・バレエ団のプリマバレリーナ
バレエ界での4つの最高賞の持ち主
トビリシオペラ・バレエ劇場のバレエ団の指導者
チャブキアニ・バレエスクールの指導者
ニノ・アナニアシヴィリとアンドレス・リエパ
イルマ・ニオラゼ(1969年-現在)
トビリシ・オペラ・バレエ劇場のバレエ団のソリスト
ペテルブルグのマリンスキー劇場のリードソリスト
国立エルミタージュ劇場のソリスト
イルマ・ニオラゼ
ニコロズ(ニコライ)・ツィスカリゼ(1973年-現在)
モスクワのボリショイ劇場の首席ダンサー
ワガノワ・ロシア・バレエアカデミーの学校長
ニコロズ・ツィスカリゼ
ラリ・カンデラキ(1972年-現在)
トビリシ・オペラ・バレエ劇場のプリマバレリーナ
ハンガリーのブダペスト「アートバレエ」のリードソリスト
トルコのメルスィン市のオペラ・バレエ劇場のプリンシパル
ラリ・カンデラキとイーゴリ・ゼレンスキー
エレネ・グルリジゼ(1974年-現在)
ペテルブルグの国立バレエ劇場のリードソリスト
タチキン・バレエ劇場のリードソリスト
イギリスのロイヤルバレエ団のプリンシパル
2007年イギリスで最優秀のバレリーナに選ばれた
エレネ・グルリジゼ
ところで米国のバレエ界にとって重要な存在であったジョージ・バランシニ(本名ギオルギ・バランチヴァゼ)はジョージアの音楽家の家庭で生まれました。父親と弟はジョージア民族音楽の研究者、オペラ・バレエ作曲家でした。

2016年4月9日土曜日

4月9日

この日はジョージア人にとって悲劇の日でもあり、うれしい日でもあります。

悲劇は1989年、首都トビリシで起きました。政府の建物の前で行われたソ連政府に反対する平和デモを4月9日の明け方にソ連軍が強制的に解散しました。その結果、21人の死者(女性が多く、何人かの未成年もいました)が出て、数百人が負傷しました。多くの人がガス中毒になりました。

続いてアゼルバイジャンのバクー、リトアニアのヴィリニュスでも同様の事件が起き、当時のソ連政府を動揺させました。

1991年3月にジョージアでは独立の是非を問う国民投票が行われ、95%以上が独立を支持しました。当時ジョージア共和国最高委員会委員長であったズヴィアド・ガムサフルディア(後のジョージア大統領)は投票の結果をもとに、その2年前の悲劇の日である1991年4月9日にジョージアの独立の復活を宣言しました。

デモに数千人が参加しました

大学の学生はハンガーストライキをしました

デモを解散した後もソ連軍の戦車はトビリシの中心に残っています

4月9日の犠牲者の追悼式