2018年7月24日火曜日

ジョージア映画「懺悔」について

東京の岩波ホールでもうすぐジョージアの映画「懺悔」の上映が始まります(84日~914日)。この映画は独裁主義の問題に直接接したことのない人にはありえない作り話にしか見えないかもしれません。

「懺悔」が初めてジョージアの映画館で上映されたのは1986年でした。まだソ連の頃です。当時私は16歳で、父親と一緒に見に行きました。私は鳥肌が立ちました。目を丸くして、胸をどきどきさせながら見ていました。これは誰もが知っていたけれど、大きな声で言えなかった悩みでした。ソ連国内で行われた国民の弾圧で100万人もの人々が犠牲になりました。ジョージアでは粛清を受けた人がどの家族にもいました。特にスターリン時代の1937年は激しかったです。弾圧により優秀な人々が次々に殺され、弾圧を行った政治家本人や政治とは無関係の普通の人までも粛清の対象となり、人々の心に大きな恐怖を植え付け、次世代は自由に意見を述べることができない人ばかりになってしまいました。アブラゼ監督は経験者から情報を集め、実際の出来事をもとに作品をつくりました。

映画を見ながら、私は祖父母がこっそり話してくれた出来事を思い出しました。父方の祖母は、「彼らはたいてい夜に来て、人々を逮捕し、連れて行った。当時は道に車がほとんど走っておらず、車が通る音がすると、逮捕しに来たのかもしれないと思って怖かった。夜はカーテンを閉め、家にいないふりをし、ドアにノックがあっても絶対に開けなかった」と話したものです。

母方の祖父は、「私の父は広い土地を持つ農民だった。政府に土地を奪われ、ある日、呼び出された。弾圧について聞いたことがあった私は行かないよう頼んだが、父は何も罪がないから行ってくると答えた。しかし、父は帰ってこなかった。何の知らせもなく消えてしまった。噂によれば、そのとき逮捕された数十人はひどく殴られ、『私はトロツキーの支持者だ』と無理やり書かされた後、射殺された。お墓もない。私も逮捕されるところだったが、私はドアを開けずに窓から逃げ、山の羊飼いのところにしばらく隠れていた」と話していました。私の家族のみならず周りにもそのような話はたくさんありました。

映画は、これほどの罪は死んでも消えず、次の世代にまで及ぶと述べています。主人公はスターリンやヒトラー、金正日にも少し似ていて、一般化された独裁者の顔です。時代も明らかではありません。現在の世界には国民を独裁主義で苦しませる北朝鮮もあれば、他にも人権を守らない国があるので、「懺悔」に取り上げられた問題は旧ソ連とともに消えたとは言えません。映画は、いつどこで起きるか分からない独裁主義に気をつけねばならないと訴えています。
映画「懺悔」、被害者となる画家バラテリの家族

2018年2月11日日曜日

トビリシ青年劇場

トビリシ青年劇場は1928年に創立され、今年は90年記念日です。劇場には大小の舞台および実験的舞台の3つがあり、ジョージアや外国の古典的な劇から現代の作品まで様々な演目が上演されています。劇場では、すべての子供が楽しめるよう、3つの年齢グループを設定しています。
「ネズミたちとチーズ」

「赤ずきん」
ジョージア人なら誰でも子供のころに一度はこの劇場に行ったことがあります。トビリシの学校の生徒たちがグループで訪れることもよくあります。ソ連時代から変わらず今も国の運営する劇場として大事に守られています。

私は5歳の息子と一緒に何回も訪れています。
芝居を楽しんでいる子供と大人
今年2月、この劇場が日本で行われるアジア児童青少年舞台芸術フェスティバルに参加し、ジョージアの有名な民話「ノミとアリ」をお見せします。どうぞお見逃しなく。


日時2/18(日)
開演10:00 / 13:00
会場:名古屋アートピアホール

日時2/22(木)
開演19:30
会場:国立オリンピック記念青少年総合センター リハーサル室

チケットはこちらから

「アリとノミ」はこちらでお読みください。

この芝居では、ノミとアリの友情の話に、ジョージアの民族音楽や舞踊を加えてあります。また、登場する動物が人間のようにさまざまな仕事をしているほか、動物たちがお互いを食べ合わないよう優しく改変してあります。

たとえば、豚はバレエの先生で、子豚たちの稽古をしています。カラスはノミにヒヨコではなく鶏の卵を求めます。雌鶏は遠くに行った雄鶏のことを思い悩んでいて、一羽のヒヨコの面倒を見ています。間もなくいくつかの卵から新しいヒヨコが生まれます。雌鶏はかえらなかった卵をカラスにやれと蚤にわたします。猫は画家で、ネズミをモデルに立たせ、長い時間身動きさせません。ネズミは猫から逃げ出そうとしています。


出演者の一人ニカ・ナニタシヴィリは民族舞踊のプロでもあります。その足の早さと素早さを実際にご覧ください。
 
トビリシの大統領宮殿前で青年劇場が行なったジョージアの時代劇「バシ・アチュキ」踊るニカ・ナニタシヴィリ
トビリシ青年劇場の建物
会場

2018年1月1日月曜日

「新年のモミの木」(საახალწლო ნაძვის ხე)

1929年、ソ連ではクリスマスと正月を祝うことが禁じられ、クリスマスツリーは資本主義的であるとして飾らないよう命じられました。1947年まで11日も平日でした。しかし、こっそりクリスマスツリーを飾ってクリスマスやお正月を祝う人もいたので、政府は窓から家々のなかをのぞき、市民が政府の命令を守っているかどうかをチェックしていたそうです。ところが、1937年に政府は年末年始に子どもたちのためにモミの木を飾るよう命令し、クリスマスツリーは「新年のモミの木」と名付けられて、クリスマスではなくお正月のために飾られるようになりました。その年、モスクワのソビエト宮殿に立派なモミの木が立てられ、そのてっぺんにはベツレヘムの星ではなくソ連のシンボルであった赤い星が付けられました。サンタクロースの代わりに登場した「雪のおじいさん」が白い服を着た女の子「白雪姫」を連れてきて、ソ連の指導者の肖像画が壁にかかったソビエト宮殿の会場で歌ったり、踊ったりして豪華に新年を祝いました。


 その後も毎年政府は学校の成績の優れた子供や、政府関係者の子供をモスクワのクリムリンに招いて、豪華な「新年のモミの木」のイベントを行ないました。その様子は全ソ連のテレビで放送されました。

また、広いソ連の各都市、村、学校、文化会館など、元々キリスト教徒が多いジョージアでも、ムスリムが多いアゼルバイジャンや中央アジアでも、子供向けに必ず「新年のモミの木」というイベントを行なうようにさせました。

「新年のモミの木」では、きれいに飾られたクリスマスツリーの周りに子供たちを集め、そこに雪のおじいさんと白雪姫がやってきます。それぞれの地域の民族衣装を着た雪のおじいさんが子どもたちに面白い話をし、子どもたちを歌わせたり、踊らせたり、詩を読ませたりし、最後にお菓子や果物が詰まった小さな袋をあげました。

私が子供のころ、ソ連のジョージアでは、新年を迎える時期に幼稚園や学校で子供たちに詩や歌を覚えさせ、「新年のモミの木」を行ないました。新年になると幼稚園と学校は休みで、10歳くらいまでの子供がいる親はチケットを買って、子供をさまざまな場所で開かれる「新年のモミの木」に連れていったものです。そこでは学校で習った詩を読んだり、歌を歌ったりしました。私も毎年参加しました。13歳のときも近所の年下の子供と一緒に参加し、偶然弟を連れてきた同い年の友達と会ったりして楽しかったことを覚えています。

ジョージアは独立してから26年も経ちましたが、今もクリスマスツリーを「新年のモミの木」と呼んで新年のために飾り、同名のイベントを小学校や幼稚園、子供たちのセンターなどで必ず行なっています。昔と違って衣装や飾りがカラフルになり、語られるお話は新しいものになり、人気のアニメの主人公が出てきたりするようになりました。
子供たちのための数多くのクラブやサークルがあるトビリシの「若者と生徒たちの宮殿」で、お正月に豪華な「新年のモミの木」が行なわれています。雪のおじいさんが白雪姫(ფიფქია)を連れてきました。

東ジョージア、カヘティ地方のグルジャアニ市の幼稚園で行なわれた「新年のモミの木」
このイベントでは子供も様々な衣装を着たりします。

2017年12月29日金曜日

お正月のお菓子「コジナキ」

ゴジナキはジョージアではお正月のときだけつくります。
自家製のゴジナキ
材料:クルミ250グラム、蜂蜜200グラム、砂糖25グラム

クルミを細長く切ります。割れないように気を付けます。



それから切ったクルミを軽く煎ります。風を当ててクルミの皮を飛ばします。扇風機を使う場合もあります。



蜂蜜を鍋に入れ、砂糖を加えます。弱火にかけ、かき混ぜながら温め、沸騰させます。沸騰して泡が立ったら、火からおろ、落ち着かせます。また、火にかけます。火にかけたり、おろしたりし、繰り返します。少量お皿に垂らしてみて、蜂蜜のしずくが垂らされたところに留まり、広がらなければ 刻んだクルミを鍋に入れ、火を止めます。クルミが割れないように優しく混ぜます。





なべの中身をベーキングペーパーの上に乗せ、水に濡らしたスプーンで熱いうちに平らに広げます。クルミ一個一個が重ならないよう広げたら、包丁でひし形(46cmくらい)に切ります。




10分ほど置いておくと冷めて、固まります。固まったゴジナキをお皿に盛りつけます。

2017年12月15日金曜日

チュルチヘラ

チュルチヘラ(ჩურჩხელა)はジョージアの伝統的なお菓子で、お正月の食卓に欠かせません。

チュルチヘラの主な材料はブドウの果汁です。ブドウの果汁を沸かし、水分を半分に減らします。すると果汁の甘さが増します。更に、穀物の粉でとろみをつけます。東ジョージアでは小麦粉、西ジョージアではトウモロコシの粉を使います。チュルチヘラの中身は基本的に木の実です。東ジョージアではクルミ、西ジョージアではヘーゼルナッツです。アーモンドやカボチャの種、ブナの実、乾燥させた果物などを芯にしたチュルチヘラもあります。木の実に細い糸を通します。それを、とろみがついたブドウの熱い果汁に浸け、木の実に果汁をたっぷり付けます。果汁から出して、棒にぶら下げ、乾燥させます。ある程度乾燥してからもう一度果汁にくぐらせることもあります。1015日間、日光に当ててよく乾燥させれば出来上がりです。
 
クルミに縫い針で糸を通します。
とろみがついた果汁に浸け、外で乾燥させます。
チュルチヘラは保存食です。秋にブドウを収穫し、ワインをづくり始めるころ、ブドウの果汁を搾り、チュルチヘラもたくさんづくります。最近は水分を飛ばしたブドウの果汁を瓶詰めにし、いつでもチュルチヘラをつくれるように置いておくこともあります。出来上がったチュルチヘラを乾燥した涼しいところに置いておけば、次のブドウの収穫の時期まで、一年間も持ちます。チュルチヘラは最初はやわらかくて、もちもちしています。しかし、長く置けば置くほど乾燥し、硬くなってしまいます。硬くなったチュルチヘラは温めるとまた柔らかくなります。

いつまでも硬くならないように少量の蜂蜜を加える場合もあります。砂糖は使いません。あくまでも天然の素材の甘さと香りが大切です。ブドウの種類によって、チュルチヘラの色もさまざまです。明るい茶色や濃い茶色、濃い赤、赤っぽい茶色のチュルチヘラもあります。しかし、市場や町の観光客が多いところで売られているチュルチヘラには、鮮やかな赤や黄色、緑色のものもあります、変な味のものも売っています。このようなチュルチヘラはどんな材料でつくられたか分かりません。買う場合には十分に気を付けてください。
 
変なチュルチヘラ
 チュルチヘラは食べる前に糸を引っ張って取り出します。それから一本を持ってかじって食べてもいいし、スライスして、少しずつ飲みものと一緒に食べてもいいです。一本のチュルチヘラを食べるとおなかがいっぱいになります。その昔、ジョージア人は遠いところに行く際に、途中で食べるためチュルチヘラを持って行きました。

スライスしたチュルチヘラ
私にはチュルチヘラにまつわる子供のころの思い出があります。母がチュルチヘラをつくりました。乾燥させるためバルコニーに棒を置き、そこにぶら下げました。これを見かけた私と兄はチュルチヘラが乾くまで待ち切れませんでした。遊びながらチュルチヘラに立ち寄って、手を触らず、口を開け、下から少しづつ齧りました。結局全部食べてしまいました。おいしかったです!

チュルチヘラは特に子供たちが大好きです。ジョージアの幼稚園や小学校では秋祭りのときに必ずチュルチヘラづくりを体験させます。チュルチヘラはジョージア人にとってお菓子であるだけではなく、子供のころの思い出でもあり、また、ジョージアの伝統と心でもあるのです。

幼稚園で友人の子供がチュルチヘラづくりを体験

2017年4月20日木曜日

ジョージア人のお墓と墓参り

今年ジョージアでは復活祭を416日に祝いました。復活祭の次の日は墓参りをする習慣があります。今年も墓地にはたくさんの人が来ていました。

ジョージア人は普通はお墓に家族全員で参ります。復活祭の赤いゆで卵と「パスカ」と呼ばれる甘いパン、ろうそく、ワインをもって行きます。赤い卵とパスカはお墓に供え、ろうそくは火を灯して立てます。そこで亡くなった人を偲びます。ワインをコップに注ぎ、一口飲んでから残りをお墓にかけます。聖書には亡くなった人は誰でもいつか復活すると書かれています。それで、墓参りをするジョージア人は亡くなった家族や友達もいつか復活するだろうと無意識に信じながら、復活祭の喜びを亡くなった人たちと分かち合います。

ゆで卵とパスカ以外にいろいろな食べものを墓地に持って行く人もいます。それらの食べものをお墓のそばにつくられたテーブルに並べ、食べたりワインを飲んだりします。時には大人は酔っぱらって歌を歌い、子供は遊びだし、墓地はにぎやかになります。墓地で騒ぐのは恥ずかしいと考える人もいますが、亡くなった人と一緒に楽しく時間を過ごしてもいいではないかと思う人もいます。

トビリシ貯水池の近くの墓地
家族で食事をする人たち
おじいさんたちが集まって墓地で一緒に食事をしています。
友人のお墓参りでしょう。
椅子が足りなければ立ったまま、あるいはお墓の縁に座って食べる人もいます。
ところで、ジョージアでは遺体を燃やさず、そのまま棺に入れて土に深く埋めます。そのためお墓も人が横になる大きさです。お墓の上には亡くなった人の名前と生まれた年、亡くなった年を書いた石を置きます。そこに顔を描いたお墓もあれば、石像が立っているお墓、屋根がついたお墓もあります。お墓のそばに座れるように椅子やテーブルをつくることもあります。ジョージア人はお墓をきれいにし、花や植物や小さい木を植えます。

トビリシのクキア墓地
チュリップの花が咲いているお墓
私の祖父のお墓には顔が描かれています。
屋根つきのお墓
石像が立っているお墓
ジョージアでは夫婦のお墓は仕切らずそばにつくります。亡くなってから30年経てば、そのお墓の上に次の世代の亡くなった家族を入れることもできます。更に時間が経てば、墓地はだんだんいっぱいになり、新しい墓がつくれなくなります。その時には墓地を閉めます。墓地を閉めた後100年以上経ち、墓参りする人もいなくなれば、墓地を壊してもいいとされています。壊した墓地の跡に公園をつくります。たとえば首都トビリシの中心にあるヴェラ公園はこのようにできました。
 
トビリシのクキア墓地、夫婦のお墓
ヴェラ公園

2017年4月5日水曜日

ジョージア統計局のいくつかのデータ

2014年に統計局が行った調査によれば、ジョージアの人口は3 720 400人です。2002年に行われた調査では4 371 500人でした(このデータにはジョージア政府がコントロールできない地域、アブハジアと南オセチアの人口は含まれていません)。ジョージアの政治的、経済的状況は90年代と比べて安定しましたが、人口は減る一方です。原因として、出生率が低いことや、失業率が高く、外国に出稼ぎに行く人が多いことが挙げられます。2008年に起きたロシアとの戦争も悪影響を与えました。
人口の減り方
ジョージアの人口の多くは民族的にジョージア人です。その次に多いのはアゼルバイジャン人とアルメニア人です。そのほかの民族としてロシア人、ウクライナ人、クルド人、ギリシア人、ユダヤ人などがいます。ソ連時代はジョージア人以外の民族が人口の30%ほどもいましたが、ソ連が崩壊した後、ジョージアで起きた混乱で彼らの多くは故郷に帰りました。
民族の割合 (2014年)
ジョージアではキリスト教徒が一番多いです。その次はイスラーム教の信者です。キリスト教徒の中では正教徒が圧倒的に多いです。イスラーム教の信者にはアゼルバイジャン人のほかに、西ジョージアのアチャラ地方のジョージア人もいます。
 
宗教の信者の割合(2014年)
ジョージアでは人口の都市への集中は進んで、田舎に住む人より都市に住む人のほうが多いです。
 
都市と田舎に住む人の割合 (2014)

人口の世代別の内訳は以下の通りです。
年齢の割合 (2014年)
ジョージア人の平均寿命は男性は68.6歳、 女性は77.2歳です(2014年)。

ある統計学者によれば、ジョージアでは結婚平均年齢は男性は29歳、女性は27歳だそうです。以前よりだんだん遅くなっています。それとともに離婚の数は増えています。
離婚の数
ジョージアでは出生率が低く、1950年ごろ以降は子供の数は2人が普通です。しかし最近3人あるいはそれ以上の子供がいる家庭が増えています。この理由は90年代の混乱が収まって、割と安定した生活ができるようになったことです。ジョージアの総主教も人口が増えるよう働きかけ、自ら3番目に生まれた子供の洗礼を行なうと発表しました。また、聖職者にとっては避妊は罪で、ジョージアの人口を増やさなければならないという考えがあり、たくさんの子供がいる家庭があります。ジョージア人が将来も生き残ると期待したいです。
生まれた子供の数