2016年2月29日月曜日

建て増された建物

建て増された部分を赤い線で囲みました







ジョージアの都市にはよくこのような建物が見られます。これは1950年から1980年の間に建てられた集合住宅です。元々こんな外見ではありませんでした。これは80年代の終わりから建て増した結果です。

1987年、ソ連時代に、政府は住宅問題の解決の方法として集合住宅の建物に増築許可を出しました。建設は政府が行う予定で、面積や建てるときに守るべき規則が詳しく定められていました。のちに政府は建設をペレストロイカの時につくられた建築組合に任せました。ソ連が崩壊した後、90年代になると、住民は勝手に面積を広げ、規則も守らず建て増しを続けました。住宅の広さを2倍にした家族もいれば増築を始めたものの90年代の経済危機のせいで完成できなかった家族もいます。このような増築によって、部分的に形や色が違う、ところどころ空洞のある鉄の柱があらわな建物ができました。

ソ連時代と異なり、今では住宅の売買は自由です。お金があれば、建て増すかわりに広い家を買ったほうがいいでしょう。ジョージアの都市は建設ブームで、たくさんの新しい建物がつくられており、選択肢も多いです。現在、集合住宅の増築には許可が出ません。以前に建て増した部分を公的に登録することは難しい上に、増築された住宅の売り値は普通より3割も安くなってしまいます。しかし、人々はやはり建て増したがります。土地にお金がかからないこと、お金があるときに自分でゆっくり増築を進められることなどがその理由です。新しい家を買うより増築のほうが安上がりです。私が住んでいる家の隣に新築の建物がありますが、最上階を買った人が屋上にも部屋をつくりました。その増築は私の目の前で進められました。

ジョージアが位置しているコーカサス地方には地震の恐れもあるので、建物は定められた耐震基準を満たさなければなりません。勝手に建て増した部分は地震に耐えるどころか、ある日突然崩れて人が大怪我したり、死亡したりする事件が数か所で起きています。増築の質に問題があるのは明らかですが、政府はこれまで建て増しを効果的に厳しく取り締まれていないようです。

隣の新築建物
赤い線で囲まれた部分は増築です


2016年2月23日火曜日

ロープウェイ

首都トビリシにはソ連時代、六ヶ所もロープウェイがありました。しかし、1990年にトビリシの中心部とムタツミンダ山を結ぶロープウェイで起きた事故で19人も亡くなり、90年代にロープウェイのほとんどは止まりました。一番長く動いていたのはチャヴチャヴァゼ通りから亀湖まで行くロープウェイでしたが、それも2009年に停止しました。

2012年、トビリシに新しいロープウェイができました。このロープウェイは川岸にある公園とナリカラ砦を結び、長さは500メートルです。5人乗りのゴンドラが全部で7台動いています。そのうちの一つは床も透明です。ちょうど旧市街の上を通り、ムトクヴァリ川の景色や古い町並みもよく見えます。このロープウェイは観光客向けにつくられました。しかし、坂が多いトビリシではロープウエイが便利なので、住民が日常の乗り物の一つとしても使えるように、トビリシ市役所は今後止まっているロープウェイを復活させ、新しいものもつくるつもりです。

新しいロープウェイ






バレンタインデー

今年のバレンタインデーに私は祖母のお墓に参りました。祖母は214日が誕生日で、名前はヴァレンティナでした。たぶん、祖母の両親は娘がバレンタインデーに生まれたので、この名前を選んだのだと思います。祖母は1913年生まれです。ソ連ができる前ですが、その時代にジョージアでバレンタインデーが知られていたようです。

私が覚えているかぎり、ソ連時代は誰もバレンタインデーを知りませんでした。バレンタインデーを祝うようになったのはソ連が崩壊した後、90年代からです。そのころからジョージアではヨーロッパの影響が強まりました。バレンタインデーを祝う習慣もヨーロッパから伝わったと考えられます。

調べてみたら、正教では214日は聖バレンタインの日ではありません。また、ジョージア正教ではバレンタインデーを祝わないほうがいいと言われます。バレンタインデーの歴史が古代ローマでこの日に行われたエロティックな祭りに遡ることなどが理由です。

一般のジョージア人はバレンタインデーが好きで、恋人たちやカップルがよく祝います。この日には普通、男性は好きな女性に花やプレゼントをあげます。今年は電化製品の店から、好きな女性に電化製品をあげましょうという宣伝メッセージが携帯に届きました。また、薬局は、スキンケアやヘアケア製品がバレンタインデーの一番の贈物になるというコマーシャルをテレビで流していました。しかし、道で花を売っているおばさんたちはバレンタインデーに客があまり増えなかったと話していました。町の中でも特に盛り上がった様子はありませんでした。

祖母が眠っている墓地


2016年2月14日日曜日

ジョージアの世界遺産バグラティ大聖堂

10世紀から11世紀にかけてジョージア王バグラティII世はジョージアの土地の大部分を統一し、当時首都だったクタイシにジョージア正教の大聖堂を建てました。後にこの大聖堂はバグラティ大聖堂と呼ばれ、歴代のジョージア王の戴冠式が行われるようになりました。また、大聖堂の中には何人ものジョージア王が葬られています。

大聖堂はたびたび他国の攻撃を受けました。とくに、17世紀にオスマン帝国軍がバグラティ大聖堂を火薬で爆破した際には、天井と丸屋根、壁の一部などが失われました。しかし、大聖堂は半ば崩れかけても堂々とした威厳を感じさせていました。

19世紀の初めごろのバグラティ大聖堂

1930年にアメリカ人が撮影したバグラティ大聖堂

1952年からバグラティ大聖堂の保存のため建築学的な研究が始まり、発掘や修復工事が行なわれました。1994年にはバグラティ大聖堂はゲラティ修道院とともにユネスコ世界遺産に登録されました。その理由として、大聖堂が人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群であり、技術の集積・景観の優れた例であることが挙げられました。

ユネスコ世界遺産に登録されたころのバグラティ大聖堂




大聖堂は屋根が無く、雨や雪、風などにより崩れやすくなっていました。専門家たちはいくつかの修復プロジェクトを提案しました。その中には、大聖堂の上にガラスのドームをつくるものや元の姿を完全に再建しようとするものもありました。しかし、ユネスコ世界遺産委員会はそれらを一つも認めませんでした。

2006年に当時のサアカシヴィリ大統領は二度目の就任式の場所にバグラティ大聖堂を選びました。大統領はバグラティ大聖堂がジョージアの統一のシンボルであることを人々に思い出させました。そして、これからジョージアの統一や発展が始まり、バグラティ大聖堂も復元されると国民に約束しました。

その後、ユネスコ世界遺産委員会からの許可を待たず再建工事が始まりました。再建プロジェクトには世界的に有名な外国人専門家が加わっていましたが、2012年にユネスコは再建工事が大聖堂の真正性と完全性を損ないかねないことを理由として、バグラティ大聖堂を危険にさらされている遺産のリストに移しました。
再建工事が終わった後の姿



ジョージアの専門家の意見は二つに分かれています。一部の専門家がこの再建を実施すべきではなかったと厳しく批判する一方で、再建を支持する専門家もいます。ジョージア正教会の総主教はこの再建に賛成ではなかったという噂もありますが、総主教の祝福がなければこれほど大規模な再建は行なうことができなかったと思います。バグラティ大聖堂はもともと教会で、再建によってその機能を果たすことができるようになったので、正教会の代表者たちにとって再建はもちろん大歓迎でした。


再建工事が終わった後も、国内では議論が続いています。壁だけが残った大聖堂を見るより、礼拝を行なうことができる完全な教会のほうがよいと言う人もいれば、新しい鉄製の部分やエレベーター、ガラス窓に描かれたジョージアの国旗、屋根の鮮やかな青い色、新しい丸屋根、工事に近代的な材料である鉄筋コンクリートを使ったことなどに違和感を感じる人もいます。

新しい鉄製の部分



ガラス窓に描かれたジョージアの国旗