2016年2月14日日曜日

ジョージアの世界遺産バグラティ大聖堂

10世紀から11世紀にかけてジョージア王バグラティII世はジョージアの土地の大部分を統一し、当時首都だったクタイシにジョージア正教の大聖堂を建てました。後にこの大聖堂はバグラティ大聖堂と呼ばれ、歴代のジョージア王の戴冠式が行われるようになりました。また、大聖堂の中には何人ものジョージア王が葬られています。

大聖堂はたびたび他国の攻撃を受けました。とくに、17世紀にオスマン帝国軍がバグラティ大聖堂を火薬で爆破した際には、天井と丸屋根、壁の一部などが失われました。しかし、大聖堂は半ば崩れかけても堂々とした威厳を感じさせていました。

19世紀の初めごろのバグラティ大聖堂

1930年にアメリカ人が撮影したバグラティ大聖堂

1952年からバグラティ大聖堂の保存のため建築学的な研究が始まり、発掘や修復工事が行なわれました。1994年にはバグラティ大聖堂はゲラティ修道院とともにユネスコ世界遺産に登録されました。その理由として、大聖堂が人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群であり、技術の集積・景観の優れた例であることが挙げられました。

ユネスコ世界遺産に登録されたころのバグラティ大聖堂




大聖堂は屋根が無く、雨や雪、風などにより崩れやすくなっていました。専門家たちはいくつかの修復プロジェクトを提案しました。その中には、大聖堂の上にガラスのドームをつくるものや元の姿を完全に再建しようとするものもありました。しかし、ユネスコ世界遺産委員会はそれらを一つも認めませんでした。

2006年に当時のサアカシヴィリ大統領は二度目の就任式の場所にバグラティ大聖堂を選びました。大統領はバグラティ大聖堂がジョージアの統一のシンボルであることを人々に思い出させました。そして、これからジョージアの統一や発展が始まり、バグラティ大聖堂も復元されると国民に約束しました。

その後、ユネスコ世界遺産委員会からの許可を待たず再建工事が始まりました。再建プロジェクトには世界的に有名な外国人専門家が加わっていましたが、2012年にユネスコは再建工事が大聖堂の真正性と完全性を損ないかねないことを理由として、バグラティ大聖堂を危険にさらされている遺産のリストに移しました。
再建工事が終わった後の姿



ジョージアの専門家の意見は二つに分かれています。一部の専門家がこの再建を実施すべきではなかったと厳しく批判する一方で、再建を支持する専門家もいます。ジョージア正教会の総主教はこの再建に賛成ではなかったという噂もありますが、総主教の祝福がなければこれほど大規模な再建は行なうことができなかったと思います。バグラティ大聖堂はもともと教会で、再建によってその機能を果たすことができるようになったので、正教会の代表者たちにとって再建はもちろん大歓迎でした。


再建工事が終わった後も、国内では議論が続いています。壁だけが残った大聖堂を見るより、礼拝を行なうことができる完全な教会のほうがよいと言う人もいれば、新しい鉄製の部分やエレベーター、ガラス窓に描かれたジョージアの国旗、屋根の鮮やかな青い色、新しい丸屋根、工事に近代的な材料である鉄筋コンクリートを使ったことなどに違和感を感じる人もいます。

新しい鉄製の部分



ガラス窓に描かれたジョージアの国旗



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